宇随の試合がもうすぐ始まるとあって、だんだんギャラリーの数も増えてきた。
人混みの中、雛と神威の二人は宇随の試合が見えやすい場所へと移動する。歩きにくそうな雛を庇うように、神威が先頭を歩き、道を作ってくれていた。
こんなさりげない神威の優しさに、雛は心の中で感謝を告げるのだった。まもなく試合が開始される。
会場の真ん中では、宇随とその対戦相手が向かい合っていた。
対戦相手は、二刀流の使い手のようだ。
二本の刀を器用にクルクルと回し、ニヤニヤと笑っている。ひょろっとした細身の体型に、顔は面長。全体的に細長いイメージの男だった。
彼が笑うと、細い目はさらに細く糸のようになり、長い口の端が持ち上がると三日月のような口になる。 少し気味の悪い印象を受ける人物だった。「薄気味悪い奴……男に見つめられても嬉しかねぇよ」
そう宇随がぼやいた時、審判が高らかな声が響いた。
「試合、はじめ!」
合図のあとも、しばらく二人は動かない。
お互い見つめ合った状態で、膠着状態が続く。いくらか時が過ぎ、男が口を開いた。
「おまえ、強そうだな」
相手の男がその細長い目を細め、ニヤついた顔で宇随を見つめる。
「確かめてみるか? かかってこいよ」
宇随が余裕の笑みで相手を挑発する素振りを見せた。
それを合図に男が動く。素早い動きで宇随との距離を詰めていき、二本の刀で両側から挟むように切りかかった。と同時に、宇随は相手の刃をかわし、隙を狙って男に蹴りを入れる。
「へぇ、やるじゃん」
宇随が嬉しそうに、口の端を上げる。
相手は咄嗟にガードして、宇随から受けるダメージを緩和していた。
もしガードしていなければ、気絶していたかもしれない。 それほどに、宇随の蹴りには威力があった。すぐに二人はお互いの距離を取って、体制を整える。
「お主、相当の使い手と見た。私も本気で行かせてもらおう」
「俺の蹴りを受けて立っていられるなんて、おまえもなかなかだぜ」宇随が刀を構え、切っ先で相手を指した。
相手の男は挑発されたように感じたのか、眉がピクリと動いた。今度は二人同時に地面を蹴った。
二人の姿は消え、刀がぶつかる音だけがあちこちに聞こえる。
物凄い速さで動いていく二人を、皆が見失っていた。「すごいです、宇随さん、あんなすごい人だったんですね!」
雛が嬉しそうに瞳を輝かせ、宇随と男を目で追っていた。
神威も戦闘を目で追いながら、雛のことも横目で盗み見る。雛の目が確実に二人のスピードについていっていることを確認した。
「君はちゃんと見えるんだな」
神威のつぶやきに、戦闘に熱中していた雛は聞き返す。
「え? 何ですか?」
「いや……」こっちを向きもせず、宇随たちを追い続ける楽しそうな雛。
そんな彼女に呆れつつ、神威は戦闘へと目線を戻した。あれから数日後。新たな門出の日が、訪れた。 今日は、私と神威の祝言の日。 まだ春浅い空の下、朝から穏やかな陽ざしが庭を照らしている。 白無垢に袖を通し、鏡の前で髪を整えながら、私は自分の姿に少し戸惑っていた。 真っ白な花嫁衣装に、髪には綺麗な簪。この簪は神威からもらったものだ。 そして、綺麗に化粧された顔に、真っ赤な口紅。 自分ということを忘れて、ほうっと見惚れてしまう。 ――これが、自分。 「とてもお似合いですよ、雛さん」 ふと振り向けば、支度を手伝ってくれていた楓太が嬉しそうな顔で微笑んでいる。 「……ありがとう」 なんだか、恥ずかしいやら、むずがゆいやら。 鏡に映る自分はとてもじゃないけど普段の私からは想像できない。 とても綺麗な花嫁が、そこにいた。 準備を終えた私は庭へと向かう。 屯所の庭の一角には、紅白の幕が張られ、簡素な式台が用意されていた。 若手の隊士たちや仲間たちが左右に並び、静かに見守る中、神威は式台の前に立って私を待っている。 彼の瞳が私を捉えると、その顔がゆるやかに緩んだ。 その笑みを見た瞬間、胸が熱くなる。 私は、傍で待っていた父・雄二の腕を取ると、そのままゆっくりと歩き出した。 白無垢の袖が風に揺れ、足元にひらりと花びらが舞い落ちる。 神威の前までやってくると、父がぽつりとつぶやいた。 「……雛、幸せになれよ」 振り向くと、父は目を赤くしながら、じっとこちらを見ていた。 その瞳にはうっすらと涙が滲む。 私は小さく頷き、父の手からそっと離れた。 そして、神威の手が私の手を掴む。 その手のひらから彼の熱が伝わってきて、思わず指先に力がこもった。 神威は私の耳元で、誰にも聞こえないように囁く。 「……雛、綺麗だよ。 愛してる。 これからはずっと一緒だ、どんなときも」 その低い声が、私の胸の奥まで優しく響く。 胸がきゅっとなり、言葉が出てこない。 ただ目を閉じて、神威の声をそっと心に刻みこむ。 この人と、これからを生きていく。 迷いながら、つまずきながら。それでも二人で。 人々のため、そして神威のため。 ――剣と共に。 その決意を胸に、そっと微笑んだ。 そのとき、風がざあっと吹き、祝福の声が飛び交った
夕方。 太陽が沈みかけ、赤い光が襖を透かして部屋を照らす。 そのやわらかな明かりに包まれながら、私は小さくため息をついた。 刀の手入れをしながら、物思いにふける。 あの事件から一日が経ち、仲間たちの言葉が今も胸の中で繰り返されていた。 私は、今のままでいいのかな。 剣を捨てられない、それでも、神威の隣にいたい。 ――もし、それでいいと言ってくれるなら。 その想いが、私の中で大きくなっていた。 そのとき、襖の向こうから神威の声がした。「雛、入ってもいいか」 たった今、想っていた相手が現れ、胸が高鳴る。 胸の高鳴りを落ち着けながら、私は答えた。「……うん」 静かに襖が開き、神威が入ってくる。 神威の視線が私の手元にある刀へと注がれる。 その瞳がわずかに揺れたあと、私の顔へと移った。「昨日のこと、聞いたよ。怪我がなくてよかった……」 優しい声音と共に、神威は私の隣へ腰を下ろした。 触れ合いそうな距離に彼がいて、胸がざわめく。 今しかない。 ――想いを伝えよう。 私は一度深呼吸すると、少し俯きながら、搾り出すように言った。「私……やっぱり、剣を捨てることができない。これが、私だから。 もしあなたが許してくれるなら……」 じっと神威を見つめる。 彼は目を細め、優しい笑みを浮かべた。「それでいい。俺は……そのままの雛が好きだよ。 最近、雛の様子がおかしいのに気づいていた。ずっと悩ませてしまって、ごめん」 神威が軽く頭を下げる。 じわっと涙が出そうになった。 今まで我慢していた感情が溢れ出しそう。 彼は、私がずっと悩んでいることに気づいていた。理解しようとしてくれていたんだ。 そのことに、胸が満たされていく。 私が俯き黙り込むと
事件のあと、 私は気持ちを整理したくて、屯所の裏手へと足を向けた。 人気のない小道をひとり歩く。 すぐそばの竹林が、わずかな風にざわめいていた。 その音が、心のざわめきを映しているようで――。 私はそっと視線を落とす。 ひとりで考えたかった。 手のひらには、まだ剣の感触が残っている。 助けたあの子の声も、しっかり胸に残っていた。 誰も傷つけずに済んだとはいえ、刀を抜いたあの瞬間、心のどこかで迷いがあった。 一瞬の迷い…… けれど、体はそれさえも凌駕し、先に動いた。 やっぱり私は、普通の女性としてはもう生きられない。 きっと……。 ふと下を向いた、そのときだった。「よっ、雛じゃん。どうした? そんなくらい顔して」 背後から明るい声がした。 振り返ると、宇随が手を振りながらこちらへ近づいてくる。 その横には、楓太の姿もあった。「……ふたりとも、見回り中?」 私が尋ねると、楓太が笑顔で頷いた。「ええ。でも、今日も町は平和ですよ。先ほどの事件以外は」 爽やかに笑う楓太の横で、宇随がにかっと笑う。「町の連中に話、聞いたぜ」 ニコニコ顔の宇随が私に近づき、指でおでこを小突いた。「へへっ、相変わらず格好良かったらしいじゃん? ま、俺たちが出るまでもなかったってわけだ」 そう言われ、私は苦笑し、小さく首を振る。「格好良いなんて、そんなんじゃない。ただ、動いてしまっただけ」「その“動いてしまった”ってのが、雛なんだよ」 宇随の言葉に、はっとする。 それが……私。 呆然と宇随を見つめると、彼は優しい笑みを浮かべてうなずいた。「雛はさ、頭で考えるより前に、体が動くタイプだろ?」 そう言われ、私はまた落ち込んだ。「……それが、いいことだとは限らないけど」
翌朝、私は一人で稽古場に立っていた。 木刀を握る手に力が入らず、いつも通りの動きがどこかぎこちない。 神威の想いも伝わってきたし。 言葉だってあんなにもやさしかったのに。 それを受け止めきれていない自分が、情けなく思えた。「はあ、ダメだ。もっと強くならなきゃ……」 誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。 ふと、外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。 今日も隊の誰かが、町の子たちに剣の稽古をつけているのだろう。 姿は見えないけれど、楽しげな声に心を和ませる。 こんな暮らしが、私の望みだった。 こんな幸せな日常を、ずっと守っていきたい……そう思っていた。 私の力で、この剣で。 そのとき、遠くの方から悲鳴が聞こえた。「きゃあっ! 誰か、助けて――!」 私は木刀を置き、刀を手にして飛び出す。 考えるより先に体が動いていた。 屯所の門をくぐり、辺りを見渡す。 遠くの方に人だかりが見えた。 それに向かって全速力で駆けていく。 人混みをすり抜けていき、人だかりの中心を覗きこむ。 ひとりの男が刃物を振り回し、近くにいた子どもを人質に取っていた。 周囲の大人たちは恐怖で動けず、子どもは泣きじゃくっている。「近づくな! 動いたら、このガキがどうなっても知らねぇぞ!」 男はすごく興奮しているようだ。 変に刺激を与えない方がいい。 私は静かに歩を進め、男の動きを見極めながら声をかける。 「何をしている? ……その子を放せ」 そう言うと、男はいきり立ったように怒鳴り散らす。「うるせえ! 偉そうに説教たれてんじゃねぇ! おまえらに、俺の気持ちがわかるか!」 その瞬間、男が刃を振り上げた。 私は迷わず踏み込み、抜刀。 地を蹴った瞬間、空気が裂けるような音と共に、一瞬で男の懐へと潜り込む。
夜の屯所は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 部屋の行灯(あんどん)の灯りが揺れ、障子にやわらかな影を落としている。 外からは虫の音が微かに聞こえ、心にそっと寄り添ってくれるようだった。 私は、部屋の隅でひとり、膝を抱えていた。 あのとき神威に言ってしまった言葉が、胸の奥で繰り返される。「今の私のまま、あなたの妻になってもいいのかな」 言ってしまったあと、少しだけ後悔した。 それはずっと胸にしまっていた迷いで、彼に見せることを躊躇っていたから。 普通の女の子とは違う私。 私は神威に、何を与えてあげられるのだろう。 彼は何を望んでいるのだろう。 女として何もしてあげられない私と一緒になって、彼は幸せになれるのだろうか。 ここ最近、悩みはどんどん増すばかりだった。 神威や仲間たちと結婚の話をするたびに、祝言の準備が進むたびに、私の心に影が落ちる。 神威は優しい。誰よりも私のことを思ってくれる。 だから、余計に心配だった。 我慢させているのではないかと。 本当は私に、普通のおなごとして生きてほしいと思っているのでは……。 もし、「そのままでいい」と言ってくれなかったら? もし、私に剣を捨てるように求めてきたら――? そんな未来ばかりを想像してしまう。 ふと、人の気配がした。 襖がすっと開く音がして、私は顔を上げる。 神威が、そっと顔をのぞかせていた。「雛、起きてたか」 いつもの優しい眼差しと、目が合う。「うん……眠れなくて」 なんだか落ち着かなくて、俯き加減に小さく頷く。 視線を上げることができず、手をぎゅっと握りしめた。 すると、神威がそっと部屋に入ってくる。 彼は、何も言わずに私の隣に腰を下ろした。 沈黙がふたりの間に沈む。「昼間の
あれから、少しばかり月日がたち、春がやってきた。 屯所も賑やかになり、あちらこちらから子どもの声が聞こえてくる。 あたたかな風が、庭に咲く草花をそっと揺らし、 日差しはやわらかく降り注ぎ、あたりを優しく照らしていた。「……はっ!」 私は、今日も剣を振るう。 屯所にある稽古場には、私ひとりだけ。 普段はたくさんの仲間や門下生、子どもたちで賑わっている。 今日は天気がいいので、外で稽古をしているようだった。 外の様子をうかがうと、神威と宇随が子どもたちに稽古をつけていた。 二人とも楽しそう。 穏やかな笑みや笑い声が飛び交っている。 とくに、宇随は子どもたちから人気がある。 今もたくさんの子どもたちに囲まれ、何やらからかわれているらしく、楽しげな声が響いていた。 まあ、あの明るさや気さくさがいいんだろうな。 逃げる宇随に、追う子どもたち。そして見守る神威。 ふと、神威に視線を向ける。その姿に胸が高鳴った。 私の愛しい人……。 見つめていると、あたたかな気持ちが湧いてくる。 しかし、そのやわらかな想いと同時に、心にそっと影が差す。 最近、ずっと悩んでいることがある。 私はそっと、自分の手にある木刀を見つめた。 心が落ち着かない。 剣の振り方一つひとつに、迷いが映っている気さえする。 何度も構え直すたびに、その心の揺れが形になっていくようで、苦しくなった。 剣は、私にとって武器であり、心の拠りどころでもある。 幼い頃から、いつも一緒で、寄り添ってくれる存在だった。 剣を握っているときは、どこまでも強くなれる。……そんな気がした。 でも、女としての幸せを考えたとき――剣は、どうすればいいのだろう。 剣を握ったまま、戦いに身を投じながら。 愛する人の側に。隣に寄り添い、生きることは許されるのだろうか。 それを望